ロシアファッションブログです。19世紀ロシアの文学作品と、各作品に登場するコスチュームについて解説しています。前回に引き続き、ドストエフスキーの「罪と罰」を取り上げます。
前回は、ドラゼダームという貧困の象徴ともいえる素材について述べましたが、コスチュームの描写には、多くの女性の運命を象徴し、かつ運命づけられた女性のイメージを一般化するという効果がありました。
もちろん男性の服にも、若干は言葉足らずにはなるものの、それを的確に描写することで、作品に深みを与える役割があることが確認できます。「罪と罰「」から、マルメラードフのいでたちの部分を抜粋します。
訳書は日本ブック・クラブ、ロシア文学全集、第1巻、米川正夫訳 です。19ページ。
「彼はぼろぼろにやぶれて、ボタンも取れてしまった黒の燕尾服を着ていた。ボタンはたった一つだけ、どうにかこうにかくっついていたが、いかにもたしなみを棄ててしまうまいとするように、それをきちんとかけていた。南京木綿のチョッキの下、汚れて皺くたの、おまけに酒のしみだらけになったシャツの襟がはみ出している。」
古いソ連映画「罪と罰」の1シーンですが、ドストエフスキーの記述に正確に衣装を合わせています。
次は、マルメラードフの回想場面ですが。
日本ブック・クラブ、ロシア文学全集、第1巻、27ページ。
「それから、どこから手に入れたものやらわしにゃ分らんが、十一ル-ブリ五十コペイカもする立派な身なりを整えてきましたよ。靴、キャラコのワイシャツ―しかもすてきに上等のやつで それから制服、これを全部十一ル-ブリ五十コペイカで立派に工面してくれたんでがす。」
マルメラードフの回想部分なので、映画やテレビシリーズの動画を見てもこの部分の映像はでてきません。よって少し考察が必要です。
まず一つの疑問が起こります。立派な服装の話をしているのに、ネクタイの話が出てきません。1800年代という時代背景から上記の述懐を解説しますと、当時ネクタイは存在していました。それは取り外し可能のものか、シャツに縫い付けられていました。取り外し可能なネクタイと袖口は、19世紀後半に中産階級の人々の間で特に普及したものです。同時代の人々はそれらを「安価な贅沢」と呼んでいました。よって、おそらくマルメラードフが作ってもらったシャツにはすでにネクタイが縫い付けてあったことが想像されます。かつそれは中産階級のアイテムです。
そして身分の低い九等官クラスの役人であるマルメラードフのような人々は、その制服のスーツに必要であった白いシャツを無理にそろえていたけれども、貧しい役人の間であまりにも高価な買い物だったという時代背景もあります。
さらに、「素晴らしいキャラコという素材を使った」という設定は、マルメラ∸ドフが属する環境の貧困の程度を強調することに役立っています。特に同じ階層部分でのマルメラードフのセリフになっている、娘のソーニャは五等官のために半ダースものシャツを縫った場面と対比されるからです。
ちなみにロシアでいうキャラコ素材はインド木綿の厚手の記事ですが、日本でキャラコというと足袋に使われる薄手のものをいいます。高級生地としての位置づけという意味では同じです。
日本ブック・クラブ、ロシア文学全集、第1巻、25ページ。
「五等官のクロプシュトック、イヴァン・イヴァーノビッチーお聞きですかな?この人なんか、ワイシャツ半ダースの仕立代を未だによこさんばかりか、やれ襟の寸法が違うのあれやれ形がゆがんでるのと難癖つけ、地だんだ踏みながら悪態までついて、あれを無法に追い返してしまいました。」
ドストエフスキーの小説のページには、当時の政治状況の現実が文学作品に与えた影響の特徴的な例も見つけることができます。また、この影響は主人公の衣装のディテールを通して表現されています。
日本ブック・クラブ、ロシア文学全集、第1巻、127ページ
「さてと、ナスチェンカ、ここに帽子が二つあるが、お前どっちがいいと思うーこのパルメルストンか(と彼は片隅から、ラスコーリニコフの見る影もない円い帽子を取り出した。彼はなぜか知らないが、これをパルメルストンと命名したので)、それともこの珠玉の如き絶品か!ロージャ、一つ値を踏んでみたまえ、いくら出したと思う?
興味深いことに、当時ロシアにもどこにもパルメルストン(英語読みはパーマストン)というスタイルの帽子は存在しません。よってこれは完全にドストエフスキーの創作と考えられます。ヘンリージョン・パーマストン(1784-1865)は19世紀半ばの英国の首相です。ロシアでは、クリミア戦争(1853-1856)中のパーマストンに対しては、当然に愛国的な憤慨を引き起こしたため、パーマストンについての言及は帽子に対する皮肉な態度と関連づけることができます。ドストエフスキーが「罪と罰」を書いたとき、クリミア戦争の出来事はまだロシア人の記憶に強く残っていたはずです。
ただし、一部の公人、アーティスト、または作家の名前に由来する帽子の名前は、非常に一般的でした。ボリーバルが他の帽子については、プーシキンの特集で紹介しました。他にクリミア戦争以来、「ラグラン」(戦争で腕を失ったラグラン将軍にちなんで名前で、長いケープを腕に被せたコートを着始めた)と「バラクラバ」(目だし帽)が使われるようになった例もあります。これがおそらく、ラスコルニコフの帽子の不条理を強調するために、小説にパーマストンが登場した理由です。
小説の出版時までに、パーマストンはすでに亡くなっており(1865年)、ドストエフスキーの小説のページでの捜索は、スコーリニコフの帽子の劣化の強調に使われたと理解できます。
もう1カ所「罪と罰」よりの抜粋を次に示します。
日本ブック・クラブ、ロシア文学全集、第1巻、23ページ
「実は、家内は由緒ある県立の貴族女学校で教育を受けましてな、卒業の時には、知事さんやその他の人たちとの前でヴェール(ショール)の舞をしたというので、金のメダルと賞状を貰ったぐらいでがすよ。」
ショールというのは、ウール、シルクなどのさまざまな生地で作られた大きな正方形または長方形のスカーフですのことです。一般的にはウールや厚手の生地の秋冬のものがショール、春夏用のものがプラトック、またはプラトークといいます。
ショールは18世紀の終わりにヨーロッパで流行し、非常に高価なものでした。19世紀初頭にすでにショールを使ったダンスが流行し、アレクサンドル1世の治世中においては最も尊敬されたエンターテインメントでした。ショールダンスは特別な優雅さを要求するとされ、格式のある教育機関では、生徒の良い姿勢を育むための最良の習い事と見なされていました。
上記の動画は、当時のショールダンスを再現したものです。その後、ショールがファッションとして衰退するにつれ、商人のワードローブにのみ存続することとなります。
ドストエフスキーは、マルメラードフが誇りに思っている妻のカチェリーナの育ちを説明するために、ショールダンスについて言及した訳です。
いかがでしたでしょうか。ドストエフスキーの小説を理解するうえで必ずしも必要不可欠な情報ではないかもしれませんが、当時のロシアの世相や時代の雰囲気を味わうためには面白い話題であるととらえていただければ幸いです。
次回はトルストイ作品に触れてみたいと思います。
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